神功皇后(一) 新羅征伐

14代仲哀天皇はかのヤマトタケルの息子であり、穴門《あなと》の豊浦宮《とようらのみや》(山口県下関市長府豊浦町)と、筑紫《つくし》の香椎宮《かしいのみや》(福岡市東区香椎)で天下を治められました。

仲哀天皇の崩御と託宣

天皇が西国へ向かわれた際、皇后オキナガタラシヒメ(息長帯日売命)は、儀式を行って神を依りつかせます。

むん、むん、むん、むん、キェーー

この時、天皇は筑紫の香椎宮にいらっしゃり、クマソの国を討とうとしておられた時でしたが、天皇は託宣に使う琴をお弾きになり、大臣建内宿禰《たけうちのすくね》が、庭にかしこまって、神のお言葉をうかがいました。

むん、むん、むん、むん、キェーー

すると、皇后に神が降りてこられて、おっしゃいます。

「西の方に国がある。金・銀をはじめとして
目もかがやくばかりの様々の珍しい宝が、
その国にはあまた、ある。吾は今、その国を従わせようと思う」

天皇がおっしゃいます。

「しかし…高台に上って西の方を見ましても、
ただ、海原があるばかりです」

天皇は、これはインチキだと思い、琴を押しのけて、弾かないで、
黙ってしまわれました。

「なんじゃ?吾を疑うのか。キーーッ生意気な!
よいわよいわ。いったいこの天下は、汝が治める地にあらず。
汝は、ただ壁に向かってイジケておればよい」

大臣建内宿禰が天皇に申し上げます。

「わが君、畏れ多いことです。どうか、その琴をお弾きください」
「むむむ…気がすすまぬがのう」

べろーん、べべん、

べん…

ぺん

いかにも、やる気の無い弾きっぷりでした。

その音も、だんだん小さくなってきます。

「わが君…わが君…、
もう少しマジメに…
あっ、ややっ!!ああっ!!」

建内宿禰が火を掲げて見ると、すでに
天皇は息絶えていらっしゃいました。

「ああ恐ろしい。恐ろしい」

人々は恐れながらも、天皇のご遺体を殯《もがり》(葬儀)の間
仮に収めておく殯宮《もがりのみや》にお入れして、
国中から捧げ物を集め、国を挙げてお祓いをして、
また建内宿禰は庭にかしこまって、

「どうか、神よ、お詞を下したまえ~」

すると、神が下り、先の託宣とまったく違わず、

「西の方に国がある。金・銀をはじめとして
目もかがやくばかりの様々の珍しい宝が、
その国にはあまた、ある。吾は今、その国を従わせようと思う」

さらに続けて、

「いったい、その西の方の国は、
汝の御腹にある御子の統治すべき国ぞ」

と神は教えさとされました。

建内宿禰が神に申し上げます。

「畏れ多いことです。わが大神。皇后陛下の腹にいます御子は、
男子でしょうか。女子でしょうか」

「男子ぞ」

「今このようにおっしゃる大神の御名は、、
なんとおっしゃるのでしょう」

「これは、アマテラスオオミカミ(天照大御神)の御心ぞ。
また、底箇男《そこつつのお》・中筒男《なかつつのお》・
上筒男《うわつつのお》の三柱の大神ぞ。
今、まことにその国を求めんと思うのであれば、
天神《あまつかみ》・地祗《くにつかみ》また、山の神・
海のもろもろの神々に、ことごとく御幣を奉り、
わが御魂を船の上に載せて、真木を焼いた灰をひょうたんに入れ、
また箸と柏の葉の食器をたくさん作って、これらを大海に散らし浮かべ、
海を渡るべし」

神功皇后の新羅遠征

そこで皇后は、神が教え諭されたとおり、軍勢を整え、
船をならべて、海を渡っていかれました。しかし、その異様なまでの
船足の速さに、皇后ご自身、驚かれます。

「いったいなぜこんなに…あっ!」

よく見ると、海原の魚が大小問わず、ことごとく船を背負う形で海を渡っていくのでした。

「おお、おお、魚たちもこの遠征を祝福しておる」

追い風がおおいに起こり、船は波に乗って進んでいきます。そして波に乗ったまま新羅国に押しあがって、一気に国の中央に到りました。

新羅の国王は畏まり恐れて言いました。

「今後、天皇の命令のままに従い、馬飼となって、
毎年船を並べ、船腹が乾く間もなく、棹や舵が乾く間もなく、
天地と共に、終わることなくお仕えいたします」

と言いました。

そこで、これにて新羅国を御馬飼《みまかい》と呼ぶことにし、
百済国は海の向うの屯家《みやけ》(直轄地)として馬などを献上させました。

こうして皇后は、その杖を新羅の国王の門につきたてて、住吉三神の荒御魂を、その地を守る守り神として、祭り鎮めて、また海を渡って帰って来られました。

神功皇后の帰還
神功皇后の帰還

皇后のご出産

さて、新羅遠征がまだ終わらない間に、皇后は産気づかれたので、「今は、今はこらえなければ」とぐっと御腹を鎮めようとなさり、石を取って衣の腰の裳に巻いて、筑紫に戻ってきたところ、その御子はやっとお生まれになります。

そこで、御子が生まれた場所を宇美といい、またその腰の裳に巻いた石は筑紫国の伊斗村という所にあります。

また、筑紫の松浦県(まつらあがた)の玉島里(たましまのさと)に到った時、皇后がその川のほとりで食事をなさった時、四月の上旬でした。

「皇后さま、あぶないですよ」
「大丈夫じゃ、よく見ておきなさい」

などとおっしゃりつつ、皇后は川の中ほどまで入って行かれ、衣の裳の糸をほどき、これを糸にして、飯粒をエサとして鮎をお釣りになりました。

それで、それ以降この地域では四月の上旬になると女が裳の糸を抜いて飯粒をエサとして、鮎を釣ることが今に至るまで続いています。

≫つづき 「忍熊王《オシクマノミコ》の叛乱」

解説:左大臣光永
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