弁慶の立ち往生

こんにちは。左大臣光永です。

先日、人と話していて「うちの高校生の息子、
川中島合戦を知らないんですよ~」と嘆いていらっしゃいました。

どうなんですかね、これは?

川中島合戦については信憑性の高い史料がなく、
どんな戦いであったかほとんど不明です。

有名な武田信玄・上杉謙信一騎打ちの話をはじめ、
ほんどが後世の軍記物によります。

だから、「史実として」
川中島合戦がどうであったかは、「よくわからない」としか
言いようが無いんですが…それでも、

「武田信玄と上杉謙信が川中島で一騎打ちをした」
という話は長く語り継がれ、世代を超えたイメージになっているんですね。
長野の八幡原歴史公園には一騎打ちの像があるんです。

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そういう話が、長く伝えられてきた。それ自体、私は一つの
「歴史」だと思っています。だから、「史実」ではないとしても、
若い世代にも知っておいてほしいなあと思います。

同じように、「弁慶の立ち往生」の話も「史実」とは言えず、
南北朝時代から室町時代はじめに成立した
「義経記」に書かれていることです。

だから、実際に起こった事とは言えないんですが、
「義経記」に描かれた義経や武蔵坊弁慶のイメージが
その後長く日本人の中に生き続け、醸造され、
芝居になったり映像になったりしてきたわけです。

そこには貴重な価値があると私は思います。

藤原秀衡の最期

文治3年(1187年)10月。

「北方の王者」藤原秀衡が、
平泉の伽羅御所(きゃらのごしょ)で病の床にありました。

息も絶え絶えな中、秀衡は
義経と二人の息子泰衡・国衡を枕辺に呼びます。

兄頼朝と対立し都を追われた義経は、
藤原秀衡をたよって平泉に逃げ込んでいました。

「そなたたちに、起請文を書いてもらう」

「起請文?」
「父上、それはどういう…」

「わしの遺言と心得よ。
わしが死んだら、鎌倉から判官殿を引き渡せと言ってくるであろう。
けして、従ってはならぬ。兄弟で判官殿を支えよ。
念珠関と白河関を塞ぎ、けして中央の争いに関わってはならん。

そうすれば、三代にわたって守ってきた
奥州百年の平和は、末永く保たれるじゃろう…」

「御館(おたち)さま!」
「父上!」「父上ーーーッ」

文治3年(1187年)10月29日(『玉葉』)。
奥州藤原氏三代・藤原秀衡は息を引き取りました。

義経にとって藤原秀衡は、少年時代に鞍馬山を抜け出し
奥州に身を寄せて以来の、長い関係でした。

実の父をほとんど知らない義経にとって、
秀衡は父親がわりともいえる存在で、
国衡・泰衡とともに、「父上」と義経も言いたかったことでしょう。

秀衡の生れた年は不明なので享年も不明ですが、
推定では73歳といわれています。

その遺体は、金色堂の右側の須弥壇の下に、
祖父清衡・父基衡の遺体とならんで安置されました。

四代 泰衡

秀衡の跡をついで奥州藤原氏の当主となったのが四代泰衡です。

義経を上にいただき、
異母兄国衡とともに支えるという父秀衡の遺言は、
当初守られました。

しかし、頼朝からの義経引き渡し要求は、
やむことがありませんでした。

頼朝は後白河法皇に圧力をかけ、
義経追討の院宣を得ることに成功します。

これで、堂々頼朝は官軍として義経討伐を行える立場となりました。

泰衡は焦ります。

「このままでは頼朝に攻められる。
そうなったら、ひとたまりも無い」

高館襲撃

文治五年(1189年)閏4月30日、
泰衡は義経の居城であった平泉の高館を襲撃します。

「おのれ泰衡。裏切ったな」
「殿、お逃げくだされーー。弁慶はここで食い止めます」
「ああっ、弁慶、弁慶ーー」

ひゅう、どす、どす、どすーーっ

弁慶は長刀(なぎなた)の柄を長くや思ひけん、一尺ばかり踏み折りて、
がばと捨て、長刀の真中(まなか)取りて、……
木戸口(きどぐち)に立ちて、敵(かたき)の馳せ入りけるを、
寄り合ひてははたと斬り、ふつと斬り、
馬の太腹(ふとばら)をがばと突き、敵の落つるところをば、
内兜(うちかぶと)に長刀を突き入れて、
首を刎ね落とし、背(みね)にて打ち、刃にて斬る。
十方八方を斬りければ、武蔵坊に面(おもて)を合はする者ぞなき。

鎧に矢の立つ事数を知らず。折りかけ折りかけしたりければ、
蓑を逆さまに着たるが如し。

黒羽(くろは)、白羽(しろは)、染羽(そめは)の矢共(やども)の、
色々に風に吹かれて見えけるは、
武蔵野の尾花の末を秋風の吹き靡(なび)かすが如くなり。

八方を走り廻りて狂ひけるを、寄せ手の者共申しけるは、
「敵も味方も皆討死すれども、この法師ばかり
いかに狂へども死なぬは不思議なり。
我々が手にこそかけずとも、鎮守大明神、
厄神(やくじん)与力(よりき)して殺し給へ」と祈りけるこそをかしけれ。

武蔵坊は敵打ち払ひて、長刀を逆さまに杖に突き敵の方を睨(にら)みて、
仁王立ちにぞ立ちたりける。偏(ひとえ)に力士の如くなり。

一口笑ひて立ちたれば、敵は

「あれ見給へ。彼(か)の法師の我らを討たんとて
此方(こなた)をまぼらへて痴(し)れ笑ひてあるは只事(ただごと)ならず。
近くな寄りそ」と申しければ、

ある者の言ひけるは「剛の者は立ちながら死ぬる事のあるぞ。
殿ばら当たりて見給へ」と申しければ、
我も当たらじ我も当たらじとする所に、
ある若武者の馬にて辺りを馳せければ、
疾(と)くより死にたる者なれば、馬に当たりて転(まろ)びけり。

長刀を握りすくみてあれば、
転び様に先へ打ち返す様にしたれば、
「すは、すは、また狂ふは」とて馳せ退き馳せ退き控えたり。

されども転びたるままにて動(はたら)かざりければ、
その時我も我もと馳せ寄りけるこそ痴(おこ)がましく見えけれ。
立ちながらすくみける事は、君の御自害の程、
敵を御館へ寄せじとて立死にしたりけるかとあはれなり。

『義経記』より

しかし、武蔵坊弁慶はじめ義経配下の武士たちの戦いもむなしく、
敵に攻め立てられた義経は妻子ともども持仏堂の中で自害しました。

奥州合戦へ

「これでもう義経問題はおわりだ。ようやく奥州は平和になる。
まったく迷惑な客人であった」

ほっと胸をなでおろす藤原泰衡。後白河法皇も義経の死を聴いて

「これで平和になる」

と、喜ばれたといいます。

そして、後白河法皇は頼朝に対し
これ以上奥州を攻めるなと武装解除勧告を出しました。

文治5年(1189年)6月13日、

泰衡は塩漬けにした義経の首を鎌倉に送ってきます。
しかし、頼朝は、泰衡を許すつもりはありませんでした。

それは、老臣・大庭景能の献策によるものでした。

「殿、軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと申します。
戦場では将軍の命令が優先され、
皇帝の命令はきかないという中国の故事です。
また、泰衡は殿の家人です。これを追討するのにいちいち
朝廷の勅許が必要とも思われませぬ」

「うむ。そのほうの言うとおり」

頼朝は北は関東から南は九州薩摩まで
大規模な動員令を出し、鎌倉に軍勢を集めます。
その数は『吾妻鏡』によれは二八万四千騎。

そして自ら軍勢を率いて奥州へ出陣しました。
文治五年(1189年)7月。奥州合戦の始まりです。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永
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