小野篁の地獄通い

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小野篁は平安時代前期の役人であり学者であり歌人である人物です。
嵯峨、淳和、仁明三代の天皇に仕えました。
百人一首に歌が採られていることでもおなじみです。

遣隋使で知られる小野妹子の子孫であり、
孫に書家の小野道風(おののみちかぜ、とうふう)がいます。
美人の代名詞である小野小町も篁の孫という説があります。

しかしこの小野篁。あやしい伝説の多い人物です。
昼間は宮廷に役人として仕えながら、夜は京都六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の
裏手にある井戸から冥途世界に下り、閻魔大王に仕ていたといいます。

冥府へ下る篁

草木も眠る丑三つ時、

木の間にもれる月明かりを頼りにざっざっざと歩いてくる者があります。
うらさびしい深夜の寺の境内におよそそぐわない立派な衣冠束帯姿で
歩いてくるこの人物こそ、小野篁です。

きょろきょろ、あたりを見て…

「だれも見てはいないな…てやっ!」

井戸の入り口から、高野槇(コウヤマキ)のツルをつたって、
するするするするーーと
篁は冥途世界まで降りていきます。

六道珍皇寺。この世と冥府の堺であるという「六道の辻」のすぐそばにあります。
平安時代、この近くには「鳥辺野」とよばれる埋葬地がありました。

あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ。

…兼好法師「徒然草」にこう語られていることで有名です。あだしのの露が消えることなく、鳥部野(山)の煙がずっと消えずに立ち上るように人生が永久に終わらないものなら、どうしてもののあはれがあるだろうか。無い。この世は終わりがあるからこそ、よいのだ。

平安京にすむ人々の遺体は、この鳥辺野で吹きさらしにされ、
鳥や虫に食い散らすに任され、風葬にされました。

そのため、この世とあの世の境ということでこの界隈には数々の言い伝えが残っています。
ちなみに平家一門の舘のあった「六波羅」も六道珍皇寺の周辺地域です。

六道珍皇寺では毎年8月7日からのお盆には先祖の霊を迎える「迎え鐘」が打たれます。

この「迎え鐘」というのがちょっと面白い鐘で、
鐘自体は建物の中にすっぽり包まれていて外からはまったく見えず、
小さな穴から出ている綱をひっぱって鳴らします。
建物の中で、鐘の音だけが聞こえるという仕組みです。

その六道珍皇寺の裏手に、小野篁が地獄の行き来に使ったといわる井戸がありました。

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地獄でアルバイト

しゅたっ、と冥途に降り立った篁、
ぱんぱんと衣の埃を払って、

「しかし実際、昼も夜も仕事じゃあ、やってらんないよ…」

たしかにそうです。昼間は公務員で、夜はバイトしてるようなもんです。
体が持たないです。
時には地獄の罪人たちの裁判をしながら眠りこけることもあったと思います。

「…というわけだが、この男の罪をどう思うか篁」
「ZZZ…」

「篁!」
「ZZZ…」

「こらっ篁!裁判の途中で眠るやつがあるかッ!!」
「うわあっ!」

「まったく…これだから副業というのはいかん。
最近ではダブルワークというのか?
仕事というものはな、そんな中途半端な気持ちでできるものではないぞ!
あっちもダメ、こっちもダメ、結局どっちも中途半端ということになる。
ワシなんか高校を出て就職してから
ずっと大王稼業一直線だ。だからこそ今のワシがあるとおもっとる。
お前もたいがい30歳を過ぎとるんだからもうちょっと人生というものを…」

(はあ~うぜえ。またエンマの説教が始まったよ。はやく終わんないかなァ)

そんな場面もあったかもしれないですね。

こうして閻魔大王の下で夜のおつとめをすませた篁は、
朝になると化野(あだしの)の福生寺(ふくせいじ)の井戸、もしくは
蓮台野の千本閻魔堂の井戸から地上に戻ってきたといいます。

小野の篁の地獄通い
【小野篁の地獄通い】

(この入口と出口が違うとこなんか、いかにも「秘密の通路」ぽくて ワクワクしませんか?)

生き返った大臣

こんな逸話もあります。

西三条大臣とよばれた藤原良相(ふじわらのよしみ)が病を得て、亡くなりました。
亡くなった藤原良相は閻魔大王の前に引っ立てられますが、大王の横に顔なじみの
小野篁の姿がありました。

「なっ…篁!なぜそんなところに!!」

篁は、閻魔大王に言います。

「この方は正直でよい人物です。許してあげてください」

「はっ!!」

目を開くと、藤原良相は生き返っていました。

その後、宮中で小野篁に会った藤原良相はお礼を言いますが、
小野篁は

「あなたが以前私のことを弁護してくれたから、
その恩返しをしたまでの話です。このことは誰にも話さないように…」

藤原良相はいよいよ篁を恐れ、一目置くようになったということです。

「百人一首」における篁

小野篁は百人一首では「参議篁」と表記されます。
最終的な位が「参議」だったので「参議篁」です。

子供の頃は乗馬ばかりしていて学問に興味が無かったので
嵯峨天皇が「父に似ない子だ」と嘆いたといいます。
篁はこれを聞いて奮起、以後学問に精を出し文章生、東宮学士と出世していき、
834年(承和元年)遣唐副使に任じられます。

しかし破損した船に乗せられそうになったことに腹を立て、
大使藤原常嗣(ふじわらのつねづく)と対立。病気といつわって乗船を拒否します。

「ケッ、やってらんねえ。沈んじゃったらどうすんだ。
そんな危ない船なんかに乗れるかッ」

ふてくされて家で寝ていました。ヘソを曲げた小野篁はさらに
「西道謡(さいどうよう)」という遣唐使を批判した詩を作ります。

「うむむ…篁、傲慢もたいがいにするがよい」

こうして篁は嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐の島へ配流となります。

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わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣船
【意味】「あの人は大海原に広がる島々をめざして漕ぎ出していったよ」
都にいる愛しい人にこう告げてくれ。漁師の釣舟よ。
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当時、都から隠岐の島へ出るには舟で淀川を下って
難波から大阪湾へ出て瀬戸内海を通って関門海峡から日本海側に出ました。
はるかの船旅です。

この歌は難波で、いよいよ大海に乗り出す際に都に残してきた
大切な人(恋人?)のことを思って詠んだ歌です。

これから島流しになろうというのに、しみったれた感じはなく、
むしろ雄大な詠みっぷりです。
自分を励ますためにそのように詠んでいるのかもしれませんが…。

篁はその文才を惜しまれ、2年後には島流しを許されて中央政界に復帰。
参議にまで登りました。

解説:左大臣光永

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