隅田川花火大会のはじまり

隅田川花火大会の起源は享保18年(1733年)にまでさかのぼります。
この前年、全国で飢饉、そして江戸でコレラが流行し、
多くの人びとが亡くなりました。

時の将軍徳川吉宗は、亡くなった方々の魂を慰めるため、
そして悪疫をはらうために両国橋のたもとで
水神祭をとり行うことにしました。

その際に、余興として花火を打ち上げのが
隅田川花火大会のはじまりです。

この時に花火を担当したのが有名な花火職人、
六代目鍵屋弥兵衛(やへえ)という男です。
最初は20発という小規模なものでしたが、年々規模が大きくなっていきました。

文化7年(1810年)鍵屋の番頭に静七というたいへん優秀な男が出ました。
清七はのれん分けを許されて、両国の広小路吉川町に玉屋を築き、
初代玉屋市兵衛を名乗りました。

「お前は一を聞いては十を悟る、実に教えがいのある番頭であった。
しかし、これからは商売の上ではカタキ同士だ。ひとつ、鍵屋の看板を
ひきずり下すくらいの覚悟でやってみなさい」
「旦那さま、もったいないお言葉です!」

そんなやり取りがあったかどうかわからないですが…

本当に玉屋のほうが人気が出てきました。

両国橋をはさんで

「玉屋ーーー鍵屋ーーー」

という掛け声が上がりました。
後発組である玉屋のほうが掛け声が先になってるんですね。
それくらい、玉屋のほうが技術がすぐれ美しかったのです。

しばらく鍵屋と玉屋の二頭体制が続きますが、
それも長く続きませんでした。

天保14年(1843年)玉屋は火事を出してしまいます。
しかもまずいことに、ちょうど将軍徳川家慶が
日光に参詣する前日でした。

「こんな大切な時期に江戸をさわがして、けしからん!!」

玉屋は江戸の退去を命じられてしまいました。

こうして玉屋の歴史はただの一代で幕を下ろしてしまいました。
しかし玉屋なき後も玉屋の花火の素晴らしさをしたう江戸庶民の声は大きかったのです。

橋の上玉屋玉屋の声ばかりなぜに鍵屋と言わぬ情無し

隅田川の花火大会。その歴史。
幕末の動乱期や太平洋戦争の時など一時的な中断はありましたが
今日まで連綿と続いています。

解説:左大臣光永
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