元禄赤穂事件と仮名手本忠臣蔵

日ごとに寒さも増すこの時期。
空気も乾燥しています。ウガイをして、
できればインフルエンザの予防接種をして…
それから熱燗で体をあっためたりなんかして、
いよいよ迫り来る寒さを、乗り越えましょう。

さて、

毎年この時期になると繰り返し語られる、
日本人にはおなじみの物語があります。

芝居に、映画に、ドラマに…
形を変え、世代を超えて語り継がれる仇討ちの物語。

そうです。

「忠臣蔵」です。

元禄15年(1703年)12月14日。
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけ よしたか・よしお)をはじめとする四十七人の赤穂浪士は、
旧主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の無念をはらすため
江戸・両国の吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸に討ち入ります。

二時間にわたる乱闘の末、赤穂浪士は宿敵・吉良上野介の首級を挙げます。

本懐を遂げた赤穂浪士は浅野家の菩提寺、高輪の泉岳寺に引き上げ、
旧主の墓前に吉良の首をささげました。

あら楽し思いは晴るる身は捨つる
浮き世の月にかかる雲なし(内蔵助)

松の廊下

後世「元禄赤穂事件」といわれるこの事件。

その発端も有名すぎるほど有名ですね。

吉良邸討ち入りよりさかのぼること1年9か月前。
元禄14年3月14日。江戸城内松の廊下にて、
赤穂藩主浅野長矩は儀礼指南役・吉良義央(きらよしひさ)に背後から、

「この間の遺恨覚えたるかーッ!」

ズバァーーッ…

突然、斬りかかります。

「なんと!」振り向いた吉良上野介の額に、

スパッ、スパッ!

二刀あびせかける!

バッタと仰向けに倒れる吉良上野介。

斬りかかった浅野長矩はすぐに留守居番
梶川頼照(かじかわよりてる)に取り押さえられます。

「殿中でござる!殿中でござる!」

斬られた吉良は別室に運ばれます。

即日切腹

刃傷事件があったこの日は、
朝廷からの勅使を接待する、大事な日でした。

斬りかかった浅野長矩はその接待役でした。

しかも将軍綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)が
朝廷から従一位の位をさずかることになっていました。

親孝行な将軍綱吉は激怒します。
わが母の顔に泥をぬった!

とんでもないことである!と。

浅野長矩は即日切腹を命じられ、
赤穂藩は改易(取り潰し)となります。

風さそう花よりもなお我はまた 
春の名残りを如何にとやせん(浅野長矩)

赤穂藩士は屋敷・領土を取り上げられ、
武士の身分を剥奪され、浪人となりました。

一方の吉良義央(きらよしひさ)はお咎め無しです。

なぜ斬りかかったのか?

浅野長矩がなぜこのような刃傷に及んだのか?
それは今日まで諸説あってハッキリしません。

饗応指南役である吉良上野介が、浅野が賄賂をケチったために
接待のノウハウを教えず、恥をかかせたという説。

赤穂で取れる良質な塩を、吉良が嫉妬したという説。

また事件の40年以上後に創作されたおなじみの「仮名手本忠臣蔵」。
まず人形浄瑠璃として、ついで歌舞伎として演じられました。
今日まで繰り返し演じられる、人気の高い演目です。

もっともこの「仮名手本忠臣蔵」、
徳川幕府にはばかって、時代設定がずっと昔の
南北朝時代、「太平記」の時代に置き換えられています。

登場人物も、大石内蔵助は大星由良助、
吉良上野介は高師直、浅野内匠頭は塩冶判官と
名前が変わっています。

この「仮名手本忠臣蔵」の中では、史実の吉良上野介にあたる
高師直が、史実の浅野内匠頭にあたる塩冶判官の妻、
顔世御前にちょっかいを出します。

しかも、高師直は、塩冶判官を田舎侍とののしります。

とうとう堪忍袋の緒が切れた塩冶判官。
刃傷に及んだ…

こういう解釈がされています。

解説:左大臣光永
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