一休さん

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一休さんは、子供のころ絵本やアニメでご覧になった方が多いことでしょう。ぽくぽくぽくぽく…ちーんという独特の効果音とともにトンチをひねり出す、一度見たら忘れられないあの図。

「一休さん!大変でござる」の掛け声とともに毎回事件を持ち込む蜷川新右衛門(にながわしんえもん)さん、一休さんをとっちめてやろうと狙うけれども毎回逆にとっちめられる将軍足利義満や桔梗屋さん、おかっぱ髪で猫をかわいがっている、可愛いさよちゃん。脇をかためる登場人物も個性がハッキリしていて楽しかったですね。

後小松天皇の御落胤

一休さんこと一休宗純は、南北朝時代の後小松天皇の御落胤といわれています。

南北朝時代。天皇家が北朝と南朝に分かれて争いました。北朝の後小松天皇は将軍足利義満の仲立ちで南朝の後亀山天皇より三種の神器を譲り受けて即位。ここに1336年(建武3年)から50年以上続いた南北朝の動乱は、いちおうの終結を迎えます(1392年明徳3年 明徳の和約)。

一休さんの母は藤原氏の一族、日野中納言(ひのちゅうなごん)の娘伊予局(いよのつぼね)といいました。子供をみごもった時、周囲がよからぬ噂を立てました。「伊予局は南朝方と通じている」「いずれ生まれてくる子供をかついで、南朝方の旗印とするつもりだぞ」

南北朝の合一がなったといっても、まだまだ南朝方の勢力も強く、ややこしい情勢だったのです。

伊予局は宮中を離れ、嵯峨野天竜寺の近くに庵をむすび、1394年(応永元年)元旦ひっそりと男の子を出産します。幼名千菊丸(せんぎくまる)。後の一休宗純、一休さんです。伊予局はわが子を南北朝の争いから守るため6歳の時出家させ、京都の臨済宗安国寺に預けます。

安国寺での子供時代

安国寺に入った千菊丸は和尚から「周建(しゅうけん)」と名付けられました。周建はかしこい男の子でした。寺の蔵書をかたっぱしから読んで、学問を身に着けていきます。

8歳の時には頓智で大人たちをやりこめるくらいになっていました。安国寺ですごした周建の子供時代の話が、江戸時代に仮名草紙「一休咄(いっきゅうばなし)」として描かれ、有名となります。アニメの「一休さん」も安国寺時代のことを扱っています。

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水あめの話

ここからは少し仮名草子に描かれた「一休さん」の話をします。実際には「一休」と名乗ったのは安国寺を出て24歳になってからですが、わかりやすくするため「一休さん」ということで話を進めます。

むかしむかし、京都の安国寺というお寺に、一休さんというとてもかしこい小坊主さんがいました。

安国寺には一休さんのほかにも多くの小坊主さんたちがそれぞれの家から預けられていました。小坊主さんたちにとって楽しみは夜です。昼間のおつとめで疲れ果ててはいますが、月明かりがさーっと差しているお寺の講堂で、みんなで布団をしいて寝るのです。自然と、顔をよせあって、おしゃべりということになります。

「ねえねえ、みんな知ってる?和尚さんのこと」
「和尚さんのことって?」
「いつも甘いものはダメだ、お菓子なんかダメっていってるじゃないか。
でも和尚さん、水あめを壺に入れて持ってて、夜になったら
美味しそうに舐めてるんだよ」
「ええっ!ずるいなあ。水あめなら、ぼくたちだって欲しいよ」
「だろう?でも、和尚さんはこんなこと言うんだ。この壺か。中身は毒だ。
食べたらいかん。食べたらいっぺんで死んでしまうって」
「子供だましだなあ」
「実は僕に作戦があるんだ。そしたらみんな、腹いっぱい水あめを舐められるよ」

小坊主さんたちは「えっ!そんなことが」と興味津々で、
顔を寄せ合って、一休さんの計画を聞きます。

次の日、和尚さんが法要から帰ってくると、おーんおんおんと
一休さんが泣いていました。

「どうしたのじゃ一休?」
「和尚さん、実は和尚さんが大切にしている硯を割ってしまったんです」
「なんと」
「それで死んでおわびしようと思いまして、あの壺の中の毒をぜんぶ食べたんです。 それなのに、まだ死ねないんです。うわーん」
「お前、あの水あめ食べちゃったのか!」
「あれっ?毒ですよね。壺の中身は毒だって和尚さん言ってましたよね? あれは水あめだったんですか?ふーん、へーえぜんぜん知らなかったや」
「ぐぬぬ…一休!お前ワシをはめおったな!」

和尚さんは一休さんの頓智に関心して、水あめを舐めたことを許したということです。

屏風の虎

「ほう、一休とはそんなにかしこいのか」

将軍足利義満はある時一休さんをお館に招きます。どれほど頓智がきくのか確かめたくもあったし、南朝方の残党が一休さんを担ぎ出して反乱を起こすかもしれないという疑いもあったからです。

広間に膳が運ばれ、食事となります。その中に魚料理がありました。和尚さんは魚料理に手をつけませんが、一休さんはぱくぱくと美味しそうに食べてしまいました。

将軍足利義満、キランと目を光らせます。

「むむ、一休どの、坊主が魚料理を食べてもよいのですかな?」

しかし一休さんはケロリとして答えます。

「私の喉はただの道です。道には魚屋さんもあれば八百屋さんもあります」

むっとした足利義満は一休さんの前に刀をつきつけて、

「ではこの刀も、喉の道を通りますかな?」

一休さんは驚く様子も無く、答えます。

「道には関所がございます。刀を持った物騒な者は通すことまかりなりませぬ」

足利義満はあきれ果てて、さらに難題をふっかけます。

「あの屏風の虎が抜け出して舘の中をかけまわるので、困っておるのじゃ。
なんとか捕まえられんものか」

「わかりました。では縄をお借りいたしましょう」

一休さんは縄を持って鉢巻を巻いて、腕まくりをして、
さあ捕まえるぞという気合の入った感じで屏風の前に立ちます。

「さあ、つかまえますので、どなたか、虎をこっちへ追い出してください」

ざわざわっ…まわりの人びとはざわめきます。

「一休殿、絵に描いた虎を追い出すなど、それは無理というものじゃ」
「将軍様、絵に描いた虎を捕まえるなど、そりは無理というものです」
「…なるほど、ぎゃふんである」

将軍さまは一休の機転に関心し、以後疑いをかけるのをやめたという話です。

入水自殺

安国寺で子供時代を送った周建(のちの一休)でしたが、16歳の時安国寺を出て、京都西山西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんのうそうい)和尚の弟子となります。謙翁宗為は自分の名前から一字とって、周建に「宗純」の法名を与えます。人もうらやむ仲のいい師弟関係だったようですが、師謙翁和尚は早くに亡くなってしまいます。

悲しみに暮れた宗純は、瀬田川に身を投げて入水自殺をはかります。一命はとりとめますが、師を失った悲しみは大変なものでした。

「一休」の号を授かる

ついで宗純は近江堅田(かただ)の華叟禅師(かそうぜんじ)の弟子となりますが、生活は苦しく、貧乏でした。宗純は内職をして暮らしを支えたといいます。24歳の時、宗純は瞽女(ごぜ。盲目の女芸能者)の語る「平家物語」「祇王」の段を聴いていました。

「祇王」の物語はこういう内容です。平家一門が全盛期の時代。平清盛にかわいがられている祇王という白拍子がいました。ところがそこへ新人の仏御前があらわれ、清盛の前で歌や舞を披露します。すると清盛の寵愛は一発で仏御前にうつり、祇王は舘を追い出されてしまいます。

祇王はすっかり世の中がイヤになり、出家します。嵯峨野の奥に庵を結び念仏三昧の暮らし。そこへある晩、ととととんと庵の戸を叩くものがありました。

開けてみると、なんと頭をまるめて尼さん姿となった仏御前でした。自分を最初に引き立ててくれたのは祇王御前なのに、その恩人の祇王御前を出しぬいて自分がその位置にすわってしまった。このことに仏御前はつくづく申し訳なく感じていたのです。

祇王と仏は手を取り合い、以後念仏三昧してそれぞれ極楽往生を遂げた…というお話です。

瞽女の語る平家物語「祇王」を聴きながら、宗純は思います。

(なるほど…考えてみれば人生は煩悩から悟りへ到るまでの間に、
ほんちょっと一休みをしているようなものかもしれないなあ)

有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ風ふかば吹け

「有漏路」は煩悩にまみれた状態、「無漏路」は煩悩の無い悟りの境地。人生は煩悩から悟りの境地に帰るまでの途中で一休みしているようなものだ。雨が降るならどんどん降ればいい。風が吹くならいくらでも吹くがいい。この話を師の華叟禅師にしたところ、そいつはいいということで、華叟禅師より「一休」の号を授けられました。

解説:左大臣光永

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