聖徳太子の『未来記』

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「聖徳太子は未来を見通せた!」

『日本書紀』に、そんなことが書かれており
(兼知未然(兼ねて未然をば知ろしめす))
後世、この記述をもとに
『未来記』という書物の存在が語られています。

『平家物語』によると…

寿永2年7月22日、
木曽義仲の軍勢が比叡山東坂本まで迫っているという話が京都に届き、
平家一門の館のある六波羅は大混乱となります。

7月24日、平家棟梁平宗盛は六波羅の池殿平頼盛の舘に建礼門院徳子を訪ね、
平家一門都落ちすることになったとを語ります。

「とにかく、そちのはからいのままに」

建礼門院と宗盛は互いに袖をしぼり涙を流しました。

後白河法皇は平家都落ちを事前に察知し、
ひそかに法住寺の御所を抜け出し、鞍馬に逃れます。

翌早朝、6歳の安徳天皇を輿に乗せて、
同じ輿には母建礼門院が乗り込んで、
三種の神器をたずさえて、平家一門西国をめざして落ちていきました。

…という状況の中、『平家物語』にはこう書かれています。

「法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は法闕をさって西海へ、摂政殿は吉野の奥とかや。女院・宮々は、八幡(やわた)・賀茂・嵯峨・太秦・西山・東山のかたほとりについて、にげかくれさせ給へり。平家は落ちぬれど、源氏はいまだ入かはらず。既に此(この)京は、ぬしなき里にぞなりにける。開闢よりこのかた、かかる事あるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記にも、けふの事こそゆかしけれ。

『平家物語』巻八「山門御幸」

ようは、大変なことになってしまった。
聖徳太子の未来記に今日のことがどう書かれているか、
興味深いと言ってるわけです。

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『太平記』によると…

1332年(元弘2年)、
楠正成は隠岐の島に流された後醍醐天皇の
呼びかけに応じ打倒鎌倉幕府をかかげて挙兵します。

楠正成は出陣に際し、難波の四天王寺に収められていた
聖徳太子の未来記の巻物を開きます。

「これは…!」

『太平記』本文には、『未来記』の文章が引用されています。
いかにも謎めいていて、ワクワクします。

人王(にんおう)九十五代に当たりて、天下ひとたび乱れて、主、安からず、このとき、東魚(とうぎょ)来たりて、四海を呑む。 日、西天に没すること三百七十余か日、西鳥(せいちょう)来たりて、東魚を食らう。その後、海内(かいだい)一(いつ)に帰すること、三年、ミ猴(みこう)の如き者、天下を掠むること三十余年、大凶変じて一元に帰す、云々。

(『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」)

おおまかな意味は…

「九十五代の天皇の代になって、天下はいったん乱れて、
天皇家の地位は安泰でなくなる。

この時、東の魚がやって来て四方の海を呑み込んでしまう。
太陽が西の天に没して三百七十日余りたった時、
西の鳥が来て、東の魚を食らう。

その後三年間、世の中が治まり、猿のようなものが
天下を掠め、三十年余りすぎる。

その後、大きな禍が転じて一つに統一される…とかなんとか」

サッパリ意味がわからないながら、
いかにも予言ぽいワクワク感がありますね。

予言の読み解き

南北朝時代の背景を重ねあわせて読むと、だいたいこうなります。

「第九十五代後醍醐天皇の代になって天下はいったん乱れて、
天皇家の地位は安泰でなくなる。

この時、関東に北条高時があらわれて、四方の海を呑み込んでしまう。
後醍醐天皇が西方の隠岐島に流されて一年ほどたった時、
関西に楠正成があらわれて、北条高時の鎌倉幕府を滅ぼす。

その後、三年間、世の中が収まり(建武の親政)、
猿のようなもの…足利尊氏が天下を掠め、三十年余りすぎる。

その後、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ
三種の神器が返還され、
ながらく争われていた南北朝の動乱に決着がつく。

つまり、後醍醐天皇の出現によって、
結局は南北朝の動乱がおさまると、書いてあったわけです。

「おお!!ありがたや」

楠正成はますます確信をもって、後醍醐天皇にお仕えし、
鎌倉幕府を打倒したという話です。

解説:左大臣光永

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