児島高徳の忠義

こんにちは。左大臣光永です。セミの亡骸が道端に転がっているのを見ることも多い季節となりました。いかがお過ごしでしょうか?

私は昨日、東京多摩の分倍河原古戦場に取材に行ってきました。1333年に新田義貞が鎌倉を陥落させた際に、鎌倉の前哨戦が行われた所です。古戦場といっても、駅前に新田義貞像があって石碑が立ってるだけなんですが…。

単純な疑問がわきました。新田義貞軍はどうやって多摩川を超えたのか?鎌倉街道を南下して鎌倉に至るには多摩川のほかにもたくさんの川を超えないといけません。

今の多摩川は水も少ないですのでバシャバシャバシャーと馬で駆け込めば超えられそうですけどね。当時はどうだったのか?水が多かったとしたら船はあったのか?

「新田義貞軍はどうやって多摩川を超えたのかなァ」これが、すごく気になりました。わかる方がいらっしゃったら教えてください。

さて本日は『太平記』より「児島高徳(こじまたかのり)の忠義」です。

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鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇は元弘元年(1331)、幕府転覆計画のため、秘かに京都で人を集めていました。しかし、後醍醐天皇の動きは内部告発によって、鎌倉幕府に発覚してしまいます。

「まずいことになった。すぐに六波羅が討っ手を差し向けてくるぞ!」

そう考えた後醍醐天皇は京都を脱出し、一時、奈良に逃げた末に、笠置山(京都府相良郡)に陣を敷きます。しかし、すぐに幕府軍が押し寄せ笠置山を包囲。さんざんに攻め立てます。

後醍醐天皇は笠置山山中に逃げこむも、幕府軍に捕まってしまいました。翌元弘2年(1332)後醍醐天皇は隠岐島に島流しと決まり、幕府の武士たちに警護されながら都を出発します。

さてこの頃、備前国(岡山県東南部)に児島高徳という武士がありました。後醍醐天皇が笠置山に移ったと聞いて、一族を率いて救援に駆けつけましたが、笠置城はすでに落城し、楠正成は自害したという知らせが入ったので、状況を静観していました。

今回、後醍醐天皇が隠岐島に島流しとなるにあたり、児島高徳は一族を集めて、呼びかけます。天皇が護送される途中で奪還しようと!

「そもそも面々はいかが思し召し給ふ。志士仁人(しじじんにん)は身を殺し仁をなすといへり。(中略)義を見てせざるは勇なきなり。戦場に臨んで死を軽んずる事は、あながちに兵の高名とは存ぜず。かやうの事こそもつとも本望なれ。いざや人々、遷幸の路次(ろし)に参り合ひ、君を奪ひ取り奉り、兵を起し、たとひ尸(かばね)を戦場に曝すとも、名を子孫に伝えん」と申しければ、心ある一族ども、皆もつともとぞ同じける。

(そもそも皆はどう思うのか。志ある者、仁のある者は、身を殺してでも仁をなすと言うぞ。やるべき正しいことがわかっているのに、それをやらないのを勇気が無いと言うのだ。戦場に臨んで死を何とも思わない事は、私はそれほど武士の名誉とは思わない。このような事こそもっとも私がやりたい事だ。さあ人々よ、帝がお帰りになる道の途中に参上し、われらが君を奪い取り奉り、兵を起こし、たとえ屍を戦場に曝すとも、名を子孫に伝えようではないか」と申したところ、心ある一族の者どもは、皆その通りだと同意した)

こうして児島高徳とその一族は備前と播磨の途中・舟坂山の頂で待ち伏せします。しかし、幕府軍が途中で山陽道から山陰道へ進路を変えたために後醍醐天皇に行き合うことはできませんでした。児島高徳の予測は外れてしまいました。

では美作の杉坂が帝を奪還するのに都合のいい難所だと、三石山(みついしやま)から山中の雲を抜けて杉坂へ峠を越えると、「帝はすでに院の庄(美作国苫田郡。岡山県津山市内)を通過された」ということでした。

「やはり帝の御運は尽きてしまったのだ…」

一族の者たちはガックリして、散り散りに去っていきました。しかし高徳一人はなんとかして帝にこの気持ちをお伝えしたいと、身をやつして忍んで行き、帝に拝謁する機会をうかがったが叶いませんでした。それで、せめてものことに、帝のいらっしゃる宿の庭に大きな柳があるのを削って、一句の詩を書きつけました。

天 勾践(こうせん)を空しくすること莫(なか)れ
時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず

天莫空勾践
時非無范蠡

翌朝、警護の武士たちがこの詩を見つけて、「はて、これは何だ?どういう意味なんだ」と首をかしげました。誰も詩の意味がわかりませんでした。しかし後醍醐天皇は報告を受けて詩の意味がおわかりになり、にっこりと微笑まれました。しかし武士たちには詩の意味がわからなかったので、あえて事情を詮索する者もありませんでした。

古代中国の越の国王・勾践(こうせん)は忠臣・范蠡の言うことをきかず、呉の国王・夫差と戦って捕虜になりました。そうなってはじめて勾践は、范蠡の忠義が本物であったことを知りました。後に勾践は范蠡によって救い出され本国越に帰還します。勾践は今度は范蠡の言うことをよくきいて、ふたたび呉を攻めて、滅ぼしました。この『史記』のエピソードをふまえて、児島高徳はみずからを忠臣范蠡に、後醍醐天皇を越王勾践に重ね合わせ、たとえ貴方が捕らわれの身となっても、忠義を貫く者がここにおりますと、伝えたのです。

高徳(たかのり)一人は、なほもこの所存を上聞(じょうぶん)に達せんとて、微服潜行(びふくせんこう)して、美尾(みお)の湊までまぎれ下りて、隙(ひま)を伺へども叶はざりければ、せめての事に主上(しゅしょう)の御座ありける御宿の庭に大なる柳のありけるを削つて、大文字に一句の詩を書きたりける。

天 勾践(こうせん)を空しくすること莫(なか)れ
時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず

天莫空勾践
時非無范蠡

と。御警護の武士ども、朝にこれを見付けて、「何物の何事を書きたるやらん」と見れども、読み明かしけむる物も少なくて、とかく沙汰しける程に、主上聞こし召して、事の様(さま)を御尋ねあつて、うつさせて御覧あるに、朕がためになほ事を謀(はか)る忠臣・義士もありけりと、憑(たの)もしく思し召しければ、竜眼(りゅうがん)御快気(こころよげ)に打ち笑ませ給ひしかども、武士どもはあへてこの来歴を知らざれば、しばらく咎むる事もなくて休(や)みにけるこそをかしけれ。

文部省唱歌「児島高徳」は太平記の児島高徳の記事に基づきます。

文部省唱歌「児島高徳」


船坂山(ふなさかやま)や杉坂(すぎさか)と
御(み)あと慕ひて院の庄(いんのしょう)、
微衷(びちゅう)をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩。
『天勾践(こうせん)を空しうする莫(なか)れ。
時范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず。』


御心(みこころ)ならぬいでましの
御袖(みそで)露けき朝戸出(あさとで)に、
誦(ずん)じて笑(え)ますかしこさよ、
桜の幹の十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』

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本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。
ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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