宮本武蔵 佐々木小次郎 巌流島の決闘

こんにちは。左大臣光永です。大晦日のひととき、いかがお過ごしでしょうか?

私は近所の池でカモにエサをやってきました。最初は見向きもしなかったのが、じょじょに近づいてきて、エサが水面に落ちるとじゃばじゃばじゃばーーっと大挙して取りに来るのが、おもしろかったです。

さて本日は、「宮本武蔵 佐々木小次郎 巌流島の決闘」です。

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武蔵といえば巌流島。巌流島といえば武蔵というくらい有名な場面ですが、武蔵の著作『五輪書』に巌流島の決闘の話は出てきません。

巌流島の決闘が有名になったのはひとえに吉川英治氏が小説『宮本武蔵』(昭和14年)のクライマックスシーンとして描いたためです。

そして吉川氏の小説があまりにも面白かったために、いまだに史実のように思っている方が多いです。

しかし、お通も又八も吉川氏が創り出した架空の人物であり、武蔵が若い頃沢庵和尚から教えを受けたというのも吉川氏の創作です。

吉川英治氏自身が、「作家の創作と、史実がごっちゃにされていくことに危機感を覚える」といった内容のことを語っておられます(『随筆 宮本武蔵』)。

では吉川版『宮本武蔵』はまったくの作りごとかというと、もちろんそんなことはない。『二天記』という江戸時代後期の宮本武蔵の伝記に基づいて書かれています。

有名な巌流島の決闘のシーンも『二天記』の中に出てきます。

とはいえ『二天記』そのものの信憑性が問題です。

『二天記』が書かれたのは江戸時代後期の安永5年(1776)。武蔵が死んだのが正保2年(1645年)ですから、死後130年も経っています。

当然、武蔵と同時代を生きた人は死に絶えており、正しい内容が伝わっているとは考えられません。記憶違いや、意図的な演出と思われる部分も多いです。

結局、「歴史的事実としての」巌流島の決闘は、霧の中。「よくわからない」としか言いようかありません。今後の研究が待たれるところです。

本日語ります左大臣版「巌流島の決闘」も、基本的には『二天記』に依っていますが、、けしてこれが史実そのもの・実在した宮本武蔵というわけではありません。あくまでも「お話」としてお聴きください。

「おのれ武蔵!臆したか」

慶長17年(1612年)4月13日。

長門国舟島(ふなしま)にて

宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をしました。

武蔵は前もって小倉藩主細川忠興(ほそかわただおき)に願い出て決闘の許可を得ていました。

約束の時間は辰の刻(午前8時)。

しかし武蔵は2時間たってもあらわれません。

海岸で苛立つ小次郎。

その脇には決闘を見守る小倉藩の
重臣たちが床机に座ってしきりに話していました。

「武蔵という男…たしかに来るのか?」
「まさか逃げ出したのでは」
「いやいや、宮本武蔵。勝利のためには手段を選ばん男です。
こうやって敵をじらすのも、一つの策でしょう」
「それであの小次郎という男。大丈夫なのか。
奴が武蔵に斬られれば、小倉藩としては大恥ぞ」

小倉藩剣術指南役佐々木小次郎。この年の年齢は不詳ですが、
美しい青年剣士だったとも、もういい年だったとも言われます。

一方の武蔵はこの時
下関から舟島へ向かう小船の上にいました。

記録によるとこの時武蔵は29歳。
一説では細川家家老松井興長の食客だったと言います。

ざぶん…ざぶん…

「晴れましたなあ。今日は波もおだやかです」

話しかける船頭を無視して、
武蔵はさきほどから小刀で何かしきりに削っていました。

「あっ、武蔵殿、それ舟の櫂じゃないですか」
「船底に壊れたのが転がっていた。どうせ使わんのだから
いいだろう」
「そんな、勝手に、困ります。あーあ、こんなにしちゃって…」

絵画や書もたしなんだという武蔵のことで、
器用な手つきでシャッシャと櫂を削り、
またたく間に剣の形を作り上げてしまいます。

一方、海岸では…

小次郎がはるかの海をながめていると、かすかな舟影が、
見えてきます。

「ん?」

舟影はしだいに大きくなっていき、

舟の舳先で腕組みをしている武蔵の姿が
ハッキリ見えてきます。

「おのれ武蔵!決闘の刻限に遅刻するとは、
許しがたい。さあ来い!わが物干竿の錆としてくれよう」

佐々木小次郎、腰にさした刃渡り三尺の
物干竿とよばれる刀を抜き、
怒りに任せて鞘を投げ捨てます。

「小次郎敗れたり」
「何っ」

「勝つつもりがあるならなぜ鞘を捨てた。
その鞘にふたたび刀が戻ることはあるまい」

「な…ぐっ…黙れッ」

武蔵と小次郎は波打ち際で睨み合い、
じりっ、じりっと間合いを図ります。

固唾を飲んで見守る小倉藩の重臣たち。

だっ…だっ…だっだっだっだっだっ

刀をかまえ、距離を保ったまま、
海岸沿いに走り出す武蔵と小次郎。

「武蔵ッ」「小次郎ッ」

小次郎は海を背にした武蔵まで一気に距離をつめ、

ざんっ

足元に物干竿を打ち込んだと思ったその物干竿を、

すぱああああぁぁぁん

一気に切り上げ、舞い上がる砂埃の中に
武蔵を一刀両断したかと思った、その時、
宙に飛び上がった武蔵が小次郎の頭上から、
バカーーンと打ち下ろし、

「ぐはっ…」

小次郎は立ったまま、息絶えていました。

しばらくの沈黙の後、見守っていた小倉藩重臣たちは
ようやく我に返ります。

「と、捉えよ。武蔵を捉えよ」

あふてふためく小倉藩重臣たちをよそに、
武蔵は舟に飛び乗り下関へと急ぎました。

小次郎は敗れましたが、小次郎をしたう地元の人々の声は強く
小次郎の剣の流派「巌流」から名を取って
この島を舟島あらため巌流島と呼ぶようになりました。

現在、
下関の唐戸桟橋そばの関門汽船発着所から、
毎日1時間に2本ほど、巌流島行きの船が出ています。

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